Don Pachi Eatate

DonPachi Episode

わたしたちの「ゲイシャ種」について、知人が興味深い「おとぎ話」を創作してくれました。
もちろんフィクションですが、コーヒーやワイン、音楽について詳しい人なら、思わずニヤっとしてしまうかもしれません。知人の許可を得て全文を掲載します。
わたしたちのコーヒーを味わっていただきながら、しばしロマンに浸るのはいかがでしょう。


「素晴らしいコーヒーについてのおとぎ話」

南米ベネズエラ出身の若い指揮者グスタボは、貧しい子供に楽器を与えクラシック音楽を教える運動を展開しています。その子供たちを中心メンバーにした「イベロアメリカ・ユース・オーケストラ」を組織して世界中を演奏旅行しています。かれはメンバーを集めるために中南米諸国の同じ活動をしている地域をまわっては毎年オーディションをしていました。
パナマを訪問したとき、地方からでてきたという3人の少年少女の精緻で繊細な演奏を聴きます。子供たちはバッハの無伴奏バイオリンのための曲を、音を分け合って合奏しました。それを聞いたグスタボは森を渡る風のような感覚を覚えました。誰に習ったか聞くと、マリア先生が弾いたものを耳で覚え、手分けして練習したといいます。

グスタボは、そのマリア先生に会いに行くことにしました。
マリア先生は、コスタリカとの国境に近いボケテ渓谷に住んでいました。興味のある子供にバイオリンを教えながら、年に一度家族と近しい友人たちのために町の教会でコンサートをします。グスタボはそのコンサートに出向きました。
教会では30人ほどのマリア先生の家族と思しき人たちが集まり、演奏に耳を傾けていました。マリア先生は、子供たちと一緒に讃美歌や民謡を歌ったり、それをバイオリンで助奏したり。ひとしきり歌うと、みなマリア先生の名前を合唱してソロの演奏を求めました。シューベルトの有名歌曲の歌と伴奏をすべて無伴奏バイオリンに移し変えた技巧的な曲が始まります。子供たちの顔がおびえた表情になりました。続いて「夏の名残りのバラ」が鳴り始めると子供たちの表情が和みました。

グスタボは、マリア先生に自分たちの運動に助力を求めました。しかし、マリア先生は、自分の商売の得意先であるアメリカの不景気が影響して仕事がおもわしくなく、音楽活動をするゆとりがないと断ります。

マリア先生は、パナマ・ボケテのコーヒー農園のオーナー夫人でした。
結婚してから20年間夫婦でコーヒー農園を経営してきました。家族経営の小さな農園なので忙しい収穫時期にはわたしもトラックを運転してコーヒーの実を運搬するのです。日本やアメリカが良い値段でコーヒーを買ってくれれば、ゆとりができるのですが。毎年5月開かれるパナマ・ベストコーヒーオークションが終わると、家族経営もひと段落するので、その時期に教会を借りてコンサートをしているのです。練習する時間はなく、コーヒー農園の真ん中に小さな練習小屋を造っています。
グスタボは、翌日険しい渓谷のような急斜面で構成されたマリア先生のコーヒー農園を訪ねました。コーヒーの畑の真ん中に、中はがらんとして何もない粗末なコテージがありました。
わたしは、新しい楽譜を買って勉強する余裕がないので自分が記憶している曲だけさらっています。協奏曲だけで100曲以上暗譜しています。以前は記憶だけを頼りに練習していました。おかげで民謡や賛美歌といった身近な音楽を自由に即興する技術を学びました。いまはパソコンでネット上の公共楽譜を確認しながら練習できるようになりました。

このコテージのまわりは、パパ(義父)がコスタリカから持ち帰って植えたコーヒーの樹がまとめて植えてあります。それらの樹は他の樹より成長が遅く、実が熟すのも遅いのです。なぜかその樹々を大切にするパパが、わたしに似ているからと、その畑の中にコテージを作ってくれました。
わたしは、旧ユーゴスラビア出身で両親とも音楽家でした。父はサラエボ出身のバイオリン奏者、母はスペインのカタロニア出身のピアニストでした。内戦が始まってスペインの母の実家に避難しました。母の弟がコーヒーのエスプレッソマシン製造会社を経営していて、国内外のコーヒー関係者が出入りしていました。そこへ後の夫のフランクが研修にやってきました。彼はパナマのコーヒー農園の御曹司で、ヨーロッパ中のカフェをまわりながら、コーヒーのバリスタ選手権に挑戦していました。同じ頃わたしはメニューイン・コンクールで優勝しました。

世界的にコーヒーの価格が低迷している時期で、フランクのコーヒー農園の経営状態が悪くなり、パナマへ帰国することになりました。わたしはコンクールの副賞でコンサート活動が始まったところでした。その時、旧ユーゴで平和支援の慈善演奏会を開いていた両親が戦闘に巻き込まれて亡くなりました。わたしは音楽にがっかりして、フランクと結婚しパナマへ行くことしました。得た賞金と父の残したバイオリンを売って。コーヒー作りをする道を選びました。

それから10年アメリカは好景気で「スペシャルティコーヒー運動」というのが盛り上がりました。アメリカの好みに合わせた品質の良いコーヒーを作れば、適切な価格で買ってもらえるようになりました。そんな折、家族で作ったコーヒーが世界中から評価される機会が訪れました。
ボストンの有名コーヒー店「コーヒー・コンサイエンス」で、世界中からエントリーされたコーヒーに点数をつけて味を競う「パリスの審判」が開かれました。本業が弁護士で「コーヒー・アドボケイト」誌を発行しているコーヒー紅茶批評家のハーカー氏がわたしたちの農園の出品したゲイシャという品種のコーヒーに最高点を付け、一躍農園の名が挙がりました。
マリア先生のコテージのまわりの樹が、そのゲイシャ種でした。

グスタボは、彼の音楽活動を支援してくれるシアトルの有名なコーヒー会社「ジャーゴン・コーヒー」に、そのコーヒーを売り込みました。ゲイシャ種は、普通のコーヒーの10倍という、たいへん高価な値段で売れました。グスタボとフランクは、その売上げでマリア先生に高価な「弓」をプレゼントしました。それはマリア先生の父親が生前使っていた名弓でした。マリア先生は、グスタボたちの活動を手伝えるようになりました。
マリア先生夫婦のコーヒーは順調に売れ、ロサンゼルス郊外のアナハイムで行われる全米スペシャルティコーヒー協会の年次大会に参加して、ゲイシャ種のコーヒーのプロモーションをすることになりました。同じ頃グスタボたちの活動も世界的に認められ、とうとうロサンゼルスのオーケストラの音楽監督に抜擢されました。グスタボは、その就任コンサートに自分の指揮でマリア先生との協奏曲の共演を申し出ました。

わたしは、その演奏会に集まる人々にコーヒー生産者の実情を訴え、素晴らしいコーヒーの味香りを伝えたい。素晴らしいコーヒーを素晴らしいと認めて、適切な価格で飲んでもらえるようにお願いしたい。コーヒー作りを仕事にする人々が安定した暮らしが続けられるように。そのために今は精一杯演奏します。いつか生産地で音楽祭を開き、美しい自然の中で、コーヒーの香りに囲まれながら、集った人々が歌い踊り、その中にモーツァルトやベートーベンも聞こえるような。
グスタボの就任コンサートは、かれが育ててきた「イベロアメリカ・ユース・オーケストラ」との合同演奏会になりました。
グスタボが指揮棒を振り上げるとロサンゼルスのウォルト・ディズニー・コンサートホールにブラームスのバイオリン協奏曲が響きわたりました。グスタボの隣にはバイオリン独奏のためにマリア先生が楽器を構えています。

パナマを出発する前日、マリア先生は記念演奏会にパパを連れて行こうとお願いしました。パパはコーヒーの樹をほおっておけないと断りました。
マリア先生がステージの上でバイオリンの独奏を始めたころ、いつもの畑仕事が終わって、ゲイシャ種の中のコテージでくつろぐパパのところへ、孫にあたるマリア先生とフランクの長男がやってきました。持ってきたノートパソコンを開くと、そこにはインターネットで中継されているマリア先生の演奏姿が映し出されていました。(終わり)